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東京高等裁判所 昭和53年(う)1998号 判決

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、東京地方検察庁検察官検事大堀誠一作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、被告人渡邊の弁護人千田功平作成名義の答弁書、被告人村上、同黒澤の弁護人泉川賢治、同畑口絃、同大熊良臣連名作成名義の答弁書、被告人藤井、同山口、同近藤の弁護人前田知克、同横田幸雄、同吉川孝三郎連名作成名義の「控訴趣意書に対する意見書」と題する書面、被告人荒田、同武井、同八名の弁護人平出禾、同新長巖連名作成名義の答弁書及び補充答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらをここに引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。

所論は、法令の解釈、適用の誤りを主張するものであつて、要するに、原判決は、本件起訴にかかる映画「女高生芸者」、「牝猫の匂い」、「恋の狩人」、「愛のぬくもり」以下本件各映画という。)がいずれも刑法一七五条にいうわいせつ図画に当らないとして、被告人らに無罪を言い渡しているけれども、右は同条の解釈及び適用を誤つたものであるというのである。よつて、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をも加えて検討する。

一まず、刑法一七五条にいう「わいせつの図画」とは、何を指すかであるが、当裁判所は、いわゆるチャタレー事件に関する最高裁判所判決(昭和三二年三月一三日大法廷判決、刑集一一巻三号九七七頁)に従い、」わいせつ」とは、徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいうと解するのが相当であると考える。この点は、所論も原判決も同一見解であつて、特に問題はない。そして、映画がわいせつの図画に当るか否かは法解釈の問題、すなわち法的価値判断の問題であること、従つて、ある映画が一般観客に与える興奮、刺激や観客の抱く羞恥感情の程度もまた、裁判所が判断すべきものであること、裁判所が、右判断をする場合には、一般社会において行なわれている良識すなわち社会通念を規準とすべきであることも、右チャタレー事件の判決の趣旨に照らし、当然である。

原判決もまた、このことを前提としながら、社会通念は、所により、また時代とともに変遷するものであり、わが国においても、性に関する国民の意識に変化が認められるところ、わいせつ物に当るか否かの判断の規準となる社会通念自体にも変遷があるとしているのであるが、所論はまず、原判決のこの判断が誤つているという。しかしながら、右チャタレー事件に関する最高裁判所判決も、「性一般に関する社会通念が、時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷がある。」ことを認め、「現代社会においては、例えば、以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また、出版が認められなかつたような小説も公刊されて、一般に異とされない。」「往昔存在していたタブーが、漸次姿を消しつつある。」と述べていることを忘れてはならない。要するに、社会通念が変動しないというのは、一つの独断に過ぎず、社会も社会通念も常に変動しているのであり、ただこれがどの程度に変動しているか、どの部分で著しく変動し、どの部分で殆んど変動がないかを見極めることが重要であるといわなければならない。

次に、所論は、仮に社会通念が変遷するものであるとしても、社会通念としての性行為非公然性の原則に関する限りは、変化が認められないにもかかわらず、原判決がこの点でも変遷があつたかのようにいうのは、誤りであるという。ところで、右チャタレー事件に関する最高裁判所判決は、「性欲は、それ自体としては悪ではなく、種族の保存のために人間が備えている本能であるけれども、人間の中に存する精神的面、すなわち人間の品位が、これに対し反撥を感ずるのであつて、これが羞恥感情である。」「この感情は、人類一般に疑いなく存在するものであつて、例えば、未開社会においてすらも、性器を全く露出しているような風習はきわめて稀であり、また、公然と性行為を実行したりするようなことはない。」「要するに、人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。」「かような羞恥感情は尊重されなければならず、これを偽善として排斥することは、人間性に反する。」旨説いている。まことにもつともな議論といわなければならず、最近一部に唱えられる、性行為の非公然性を否定するような見解は、当裁判所もこれをとることはできない。

しかしながら、性行為の非公然性の原則は、厳として存在するとしても、その内容の如何が問われなければならない。公衆の面前で性行為を営むことが許されないことは、特殊の未開部族の場合を除けば、恐らく古今東西を通じて異論がないところと思われ、公衆の面前で性器を露出することもまた、特殊の場合を除いては、許されないとされるであろう。しかし、性器そのもの、性行為そのものでなく、その周辺における事象については、性行為の非公然性がどの程度に及ぶかは、具体的な対象について個々に考察しなければならないのであつて、例えば、性器自体を搬影した写真の展示は許されないが、裸体画、裸体彫刻の展示は許され、あるいは、土俗信仰における子孫繁栄を祈るための性行為の真似事は許されると考えられるなど、まちまちであり、時と所により許される場合と許されない場合があることは、否定できない。原判決が、「わが国における現在の時点においては、性器そのものを描写したり、実際の性交行為や性器愛撫行為を、実際の性交や性器愛撫とわかるように描写した映画さえも、わいせつに当らないと考えるのが社会通念になつているとは、いまだいえないことは明らかであるというべきであるが、そのような描写のある映画ではなくして、性器や性交や性器愛撫を連想させるような描写があるに過ぎない映画の場合には、その描写がどの程度まで許容されると考えるかが問題であり、その点の社会通念を判断するにあたつては、今日における国民の多様な価値観、倫理観、性に関する意識、娯楽に対する観念、更には現代の世相などを広く考慮に入れて判断しなければならない。」といつているのは、右と同趣旨に出たものと思われる。従つて、原判決は、いわゆる性行為非公然性の原則を否定しているものではないことはもとより、所論が原判決を理解するように、右原則を適用するに当つて、性器、性行為を連想させるに止まる映画については、これを緩和して適用すべきであるといつているものでもないことは、判文上明らかである。

二次に、所論は、原判決が、本件各映画が映倫管理委員会(以下「映倫」と略称する。)の審査を通過したものであること、映倫が社会的規制手段として機能していること、本件各映画の審査が、当時の具体的審査基準に則つて行なわれたものであることなどの理由を挙げて、わいせつ性の判断にあたつては、映倫の審査の結果をできるだけ尊重するという見地に立つて判断するのが妥当であるとしているのは、誤りであるという。

ところで、ある映画がわいせつ図画に当るか否かという、具体的な刑法の解釈、適用については、最終的な判断権が国家機関である裁判所にあつて、映倫などの私的機関にないことはいうまでもない。原判決もまた、「もし、映倫の審査結果と裁判所の判断が一致しないような事態が生じたときには、当然に裁判所の判断が優先する」と述べている。そして、原判決は、このことを前提としながら、「映倫の審査が性道徳、性風俗の維持のための社会的規制手段であり、その審査が具体的基準に基づいて、社会的良識に反することのないように表現の許容性を検討しながらなされていることなどに鑑み、わいせつ性の判断にあたつては、映倫の審査の結果をできるだけ尊重するという見地に立つて判断するのが妥当である。」というのであるが、所論はこれを争うので、さらに検討する。

〈証拠〉を総合すると、

(一)、映倫設置の目的は、映画倫理規程の示すとおり、映画が、娯楽として、また芸術として、国民生活に対しきわめて大きな倫理的影響を及ぼすことについて重大な責任を自覚し、観客の倫理水準を低下させるような映画の提供をきびしく抑制することにある、というものであつて、その目的自体なんら非難の余地のないものであること、

(二)、右映画倫理規程の運用は、挙げて映倫管理委員会に任され、右委員会を構成する管理委員は一般有識者より選ばれることとされているが、本件各映画審査当時の管理委員は、委員長高橋誠一郎、委員宮沢俊義、同有光次郎、同大浜英子、同池田義信であつて、これら委員の人格識見に疑いをさし挾むことはできないこと、

(三)、右管理委員は、映画の審査を直接には担当しないが、単なる飾り物にすぎないものではなく、随時審査員と意見を交換し、審査員が、審査に当つて、不合格とすべき映画を合格とすることのないような態勢がとられていること、

(四)、映倫は、もともと映画の製作、輸入、配給業者約三〇社が加入する映倫維持委員会によつて設立されたものであるが、右加盟各社あるいは右維持委員会は、映画倫理規程の運用には一切口を出さず、映倫の維持費用を分担することもせず、映倫管理委員会及び事務局の要する経費は、すべて映画の本数やフイルムの長さに応じて定められた審査料をもつてまかなわれていること、

(五)、実際に映画の審査を担当する審査員は、映画を製作した経験のある者などから選ばれるが、審査員によつて審査の寛厳に差の出ることのないように、一本の映画を、順番に割り当てられた複数の審査員が審査することが原則となつているが、担当審査員の意見が対立したり、ある対象映画にとくに問題があるような場合は、他の審査員の意見を徴することとし、そのほか審査員は、屡々会合して意見を交換するなどし、審査の公平を期していること、

(六)、映倫における審査の基準は、昭和三四年八月一〇日付「映画倫理規程」のほか、同年九月三〇日付管理委員長名義の「覚え書」、審査部内での申し合わせである「具体的了解事項」、昭和四〇年八月一〇日付、管理委員長名義の「『寝室描写』『凌辱描写』の具体的了解事項の明確化について」と題する通達などがあるが、映倫においては、常時警察当局の取締の動向、各種裁判例、欧米諸国の実情などを睨みあわせながら、審査基準の具体的運用を図つていること、

(七)、映倫においては、昭和四〇年に映画「黒い雪」が警視庁の摘発を受けたあと、当該審査員が、右のような問題の大きい映画の審査に当つて、管理委員会の判断を仰がなかつた点に過誤があつたとして、これを謹慎処分に付するなど、規律の維持にも留意していること、

以上の各事実がうかがわれるのであつて、映倫が、本件審査当時、すでに過去二〇年以上にわたつて、自主規制機関として、映画の倫理水準の維持に真摯な努力を重ねて来て、大きい成果をおさめていたことを否定することはできない。そこで、かように恒常的な自主規制機関として、客観的に尊重に値する内実を備えていると認められる映倫が存在することを前提として考えれば、いま、ある映画が、映倫において合格とされたのに、警察当局に摘発されたとすれば、当該映画が映倫の従前の基準からいえば当然不合格とされるようなものであつたときは別として、映倫が従前の基準からみて合格とされることに疑いをさしはさむ余地がないと認めたような場合には、映倫当局の見解は、傾聴に値するものといわなければならない。ところが、本件映倫関係被告人ら及び関係者らの原審公判廷における各供述によると、本件各映画は、従前の審査基準に従つて審査されたものであり、他の映画の場合よりも特にゆるやかに審査したということはなく、かつ、警視庁による本件各映画の摘発のあと、映倫において本件各映画を見直してみたことろ、何故に本件各映画のみが摘発されなければならなかつたのか、遂に理解することができなかつたことが認められる。そうだとすれば、本件各映画が映倫を通過したという事実は、それだけで直ちに刑法上のわいせつ性が否定されるものでないことは明らかであるけれども、少くともわいせつに関する社会通念がどの辺りにあるかを推しはかる一つの資料として、これを重視すべきだということにならざるをえない。原判決も、これと同趣旨に出たものと解されるのであつて、この点で原判決が誤つているとはいえない。

所論は、本件各映画は、当時の映倫の審査基準に照らしてみても、審査合格とすべきものであつたとは認められないという。まず、映倫の当時の審査基準として、「性器、恥毛は描写しない」、「あからさまな性交体位を示す全裸のフルショットは避ける」、「腰部を入れたピストン運動は避ける」、「あからさまな精愛液を連想させるものは描写しない」、「執拗な性器愛撫(フエラチオ、手を含み、かつパンティの上からも含む)は避ける」、「恍惚時における台詞、呻き等の繰り返しは極力避ける」等が、審査員の申し合わせ事項等として、一種の審査基準とされていたことは、所論のとおりである。

ところで、所論は、本件映画「女高生芸者」中に二個所恥毛が見える場画があるという。しかし、右映画を通常の速度で映写する限り、恥毛は見ることができない。また、右映画中に、下帯の下に陰茎がぼつきしていることが看取される場面があるというが、右場面は、性器自体を描写したものとまでいうことができない。所論は、本件映画「牝猫の匂い」、「恋の狩人」、「愛のぬくもり」中に各一個所あからさまな性交体位を示すところの全裸のフルショットがあるというが、所論指摘の場面は、遮蔽物やぼかしがあつたり、遠景であつたり、あるいは体位のずれがあつたりして、いずれも右基準に触れるものとまではいえない。所論は、あからさまに精愛液を連想させる場面が「女高生芸者」、「恋の狩人」に各一個所あるというが、右両個所とも、一瞬精愛液ではないかと思わせるものの、忽ちそれが錯覚であることが判然としてしまう程度のものであつて、右基準に触れるものとまでは考えられない。所論は、執拗な性器愛撫に当るものが、「女高生芸者」に三個所、「恋の狩人」に一個所みられるというが、これら各場面は、性器愛撫を連想させはするものの、未だ執拗な性器愛撫とまでいうことはできない。所論は、恍惚時においていたずらに性欲を刺激する台詞、呻き等の繰り返しがあるものとして、「女高生芸者」に二個所、「牝猫の匂い」に一個所、「愛のぬくもり」に三個所を指摘するが、「女高生芸者」のものは、性的羞恥心を害するというよりは、むしろ演技としてのわざとらしさ、誇張が目立つものであり、他のものは、台詞、呻き等の繰り返しがあるとまではいえず、いずれも右基準に触れるものとはいえない。なお、本件各映画と前後して、映倫を通過のうえ一般上映されたが、警察当局の摘発を受けなかつた映画「団地妻昼下りの事情」、「大色魔」、「愛のエクスタシー」、「女紋交悦」(原審で取り調べたもの)と比較検討してみても、本件映倫関係被告人らが、本件各映画の審査に当つて特に手心を加え、審査基準を緩めたり、曲げたりし、あるいは特に疎漏な審査をしたものと認められる点は、全く存在しない。

三原判決は、わいせつ性の判断に当つて、その対象が映画であるということから特に考慮する必要があると考えられる事項を二点挙げているところ、所論はこれを争うので、検討する。

まず、原判決は、映画は、被写体が、写真のように静止状態になく、刻々変るため、前後の事情もわかり、また、画面の動き具合によつては、瞬間的に視覚に感じるだけで、はつきりとした印象として残らないような場合もあり、その意味で、写真におけるように静止した映像を凝視するときよりも、印象が弱かつたり、あるいは印象がほとんど無かつたりして、刺激性が弱かつたり、あるいはほとんど無い場合もあるという。映画は、写真と比較し、連続的な動きを伴う点において、刺激性が強められる反面、かえつて右のようにこれが弱められる一面もあることもまた、否定することはできないから、原判決のこの見解にとくに誤りというべき点を発見することはできない。所論は、観客が、印象を強く受け、刺激を受けた場面を部分的に切り離して記憶にとどめ、その場面を見るため反覆して観覧することも珍しいことではないという。その映画がくり返し上映される場合には、ある特定場面のみを反覆して観覧することが可能であることはいうまでもないけれども、どのような社会調査の結果に基づいて、かかることが珍しいことではないといえるのか、なんらその根拠を明らかにしない。映画のわいせつ性を判断する場合には、この種映画の観客が、通常の熱心さと通常の注意力をもつて画面を観覧して理解しうる範囲のものを前提としなければならないのであつて、特別の視力、聴力、記憶力のある観客を基準にして判断すべきものではない。いわんや、瞬間的に視覚に感じるだけで、はつきりした印象として残らない場面についてまで、さらにわいせつ性の判断をする必要はない。

次に、原判決は、映画は、一つ一つの場面の集積により一つの作品が構成されているのであるから、まず個々の場面について、そのわいせつ性を検討し、そのうえに立つて、全体としての映画のわいせつ性を判断すべきであるとしている。この判断は正当なものとして肯認できる。所論は、原判決が、個々の場面はわいせつであつても、全体としてみればわいせつでない場合があるといつているものと解釈して、一部がわいせつであれば全体がわいせつとなるという判断に反すると主張するが、右は原判決に対する誤解に基づく主張であつて、採用できない。

四(一)、所論は、本件映画「女高生芸者」において、原審検察官がわいせつな場面であるとして指摘した七個所について、原判決がいずれもわいせつでないと判断したのは誤りであるという。

ところで、右映画は、一種の喜劇であつて、登場人物の風体、演技に誇張、わざとらしさが目立つものであるが、右の誇張、わざとらしさが、描写の現実感、迫真性を弱め、性的刺激を殺いでいることは否定し難いところであつて、この点に言及した原判決の判断が誤りであるとはいえない。なお、原判決は、所論のように、客観的にわいせつであるものが、作者の意図如何によつてわいせつでなくなつたり、ある場面がわいせつであるものが、他の場面がわいせつでないことになつて、わいせつでなくなつたりすると判示しているものではないことは明らかであつて、この点に関する所論は、当らないというほかない。

原審検察官がわいせつな場面であるとして指摘した七個所について、わいせつでないとした原判決の判断は、相当である。なお、所論は、場面の番号(3)及び(4)において恥毛が見えると主張するが、恥毛は見えない。

(二)、所論は、本件映画「牝猫の匂い」において、原審検察官がわいせつな場面であると指摘した一〇個所について、原判決がいずれもわいせつでないと判断したのは誤りであるという。

しかし、所論に従つて検討してみても、この点に関する原判決の判断に誤りがあるとはいえない。

(三)、所論は、本件映画「恋の狩人」において、原審検察官がわいせつな場面であると指摘した八個所について、原判決がいずれもわいせつでないと判断したのは誤りであるという。

右映画は、本件起訴にかかる映画四本のうちでは最も問題があるものであつて、もし映倫において問題の場面の短縮等が求められなかつたとすれば、わいせつと判断されたかも知れないものと思われる。しかし、現実には映倫によつて、短縮やぼかしを入れるように勧告されて、これに応じた結果、視覚を通じて直接的に訴える効果、迫力が弱くなり、辛うじてわいせつを免れたものであると認められる。

検察官主張の各場面に対する原判決の判断は、おおむね正当である。もつとも、所論(1)の場面中、全裸の男女の性交を連想させる描写に、ややぼかしが入つているという点は、必ずしもぼかしを確認できないけれども、全体として暗い場面であつて、描写が必ずしも明確ではないから、これをわいせつであるとまではいえない。また、所論(8)の場面について、原判決が「映画の筋からするこうした場面のラストシーンとしての必要性は首肯できないところではない」といつている点は、わいせつ性を否定する根拠としては、必ずしも適切ではないけれども、原判決の挙げるその他の理由によつて、結局わいせつとまでは断じ難い。

(四)、所論は、本件映画「愛のぬくもり」において、原審検察官がわいせつな場面であると指摘した九個所について、原判決がいずれもわいせつでないと判断したのは、誤つているという。

しかしながら、所論に従つて検討してみても、この点に関する原判決の判断が誤つているとはいえない。

以上のとおり、本件映画四本について、検察官指摘の各場面につき、これをわいせつに当らないとした原判決の判断に誤りは存しない。

結局、本件各映画が、いずれも未だ社会通念上許容し難いような露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害するようなものであるとは認め難いと判断し、これが刑法一七五条にいうわいせつの図画に当らないとした原判決には、所論の法令の解釈、適用の誤りは存しない。論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件各控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(綿引紳郎 三好清一 藤野豊)

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